昭和51年10月23日 朝の御理解



 御神訓 一、
 「祈りてみかげのあるもなきも、わが心なり。」

 大変普通一般の信心から言うと分かりやすいけれども、金光教の信心を持ってすると難しい御教えだと思うですね。何故かと言うとわが心と仰っておられる、そのわが心と言うものが、まぁ言うなら神様へ向かうておるというか、又心が平生心であるとか、喜びで一杯であるとか、安心のおかげを頂いておるとかと、言う様な心でいわばなくてもです、心が乱れておっても汚れておっても、又は安心安定がなかってもです。
 御取次ぎを頂くということによって、御取次ぎを通して祈るということになる時に、やはり霊験はあるもんですから。まぁ普通一般のまぁ拝み信心とでも申しましょうかね、から言うとこの御理解は直ぐ分かる御理解ですね。けども金光教または金光教的な考え方から言うと、やはりだからわが心と自分の心次第だぞという訳ですけれども、なら心がおかげの受けられないような状態で、お願いをしてもおかげを受けるという事実が、金光教にはあるということです。
 だから御取次ぎを頂いて、おかげを頂いたから、自分の心はもう立派であると言った様な事は、立派であると言うか、受け物があったから頂いたんだと、言う風には言えない又思えない。又思うてはならない。それこそおかばいの有り通し。出来んけれども、神様がおかばいを下さって、出来たかのようにしておかげを下さると言うのが、金光様の御信心ですからね。
 ですからあのうやはり自分の心ですね、いわゆる我が心を確かめていかなければ、もちろん言うなら欲徳が身につくと言う様なね、自分の願いが願い以上に成就していく。しかも願った事だけではない、願いもせんでも願う前から神様がおかげを下さる。そういう世界に住みたいし、そういうおかげを受けたいならば、やはり本気でここにあるところのわが心と言うものに、取り組まなければならないということです。
 だからここで霊験というのは、私はそういう意味でのおかげ。言うならば欲徳が身につく程しのおかげ。欲徳が身についたらそれをなら周囲の人から見たら大変不思議な事だと。そういう言うならば不思議な世界に、住む程しのおかげを頂く為には、わが心にやはり取り組まねばならない。そういうおかげを私は今日はここは、霊験という風に頂かないとこれは普通一般の拝み信心の積りで聞いておると、間違うように思います。
 はぁ自分は日々御取次ぎを頂いて、おかげを頂きよるからもう自分の心はこれで良いとじゃろうかと思う、それでは信心の進歩がありませんもんね。やはり欲徳が身につくほどしのもの。そういうあらたかな験と言う霊験を受けるには、もういよいよわが心に焦点を置いていかなければなりません。いわゆるわが心と同じ言葉で、今のいわゆるおかげは和賀心にあると仰る、和らぎ賀ぶ心天地書附に有るところのあの和賀心。いわゆる和賀心というものを基軸にしての、やっぱり信心でなからなければならん。
 いつも自分の心の信心の焦点というものが、和賀心を目指して和賀心を願っての信心でなからなければ。ここでの我が心はわれの心と書いてありますからね違うんです。昨日ここに修行しております、早川さんの御親戚の方から電話が掛かって来て、「お許しを頂いたら」。昨日の言葉で「明日から二日間ばっかり帰して頂けんだろうか」というのです。親戚に何か話合いがある。
 それでこうこう言う様な事情で帰ってきて貰うんですが、その事をどうでも先生本人にも言い聞かせて、まぁ帰して下さいと言った様な意味の事でした。だから言い聞かせるとかなんとか言う様な事ではないですけれども、ちょうどここの研修の時でしたから「早川さんもうここで何日になるかの修業させて頂いて」「四十五日になる」「そんならもういい加減信心の眼も、薄らパ-ッと位は開いただろうね」というて話した事でした。
 信心の眼が薄らパ-ッとでも開くとね、見る事が聞く事が、言うならば物の見方というものが変わって来るんだ。信心するものは肉眼をおいて心眼を開けと仰る。心の目が開けてくると、今までは例えば腹の立つような問題がそこにあってもです、本当の事が分かって来ると、いやぁこれはお礼を申し上げなければならない事であったと分かって来る。もうそういうところが少しは分かる様になっただろうね。四十何日間も修行したんだからとまぁ言うた事でした。
 そして今度宮崎支部の結成の時に、御神前で一番初めに神様からお知らせを頂いた話をさして貰ったんです。私御神前に出らして頂きましたらね、こんなに大きな大黒様の顔だけを頂いたんです。そしてその大黒様の顔は顔だけれども、目がないというところを頂いた。『目のない大黒様』。まlそんなものは見た事ないですね。言うなら盲の大黒様という訳です。そして私が感じた事はです、これは宮崎支部の方達だけではない、もう誰しもが欲には目がないということだと思いました。
 お金でももうこがしこ有ればよかろうごたるけれども、貯めた上にもやはり貯めたい。地位でも名誉でも、そういう欲の有る人はもう限り無い地位、名誉というものを求める。言うならば欲には目がない。それが人間の実態である。そこを信心させて頂くものは、どういうことにならなければならないかと言うと、んなら誰しもがそういう欲をもっておりますから、欲特には目がないのですから、様々にしていやが上にもその欲を募らせてね、貯めた上にも貯めたい、得た上にも得たいという。
 言うなら願いをもって一生を過ごすのですけれども、なら一生を過ごしてみてです、その欲が果たして満たされたか、御金持ちになりたいと思いながら、貧乏で一生を終わる人がどれだけあるか分かりません。地位も得たい名誉も得たいと言わば願った人達が、それこそ蹴落とされ蹴落とされして、とうとう地位も名誉も得られなかったと、由得たに致しましても、お互い人生の終着駅が近づいてきて、初めて気が付くのはです、例え地位を得ても名誉を得ても、お金を得てもです。
 はぁ人間の幸せというものは地位とか名誉とかお金だけではなかった。これは大事なものを忘れておった、気が付かなかったと気が付いて来るのが、心の安らぎである。心の安らぐおかげを頂くために、私共が生涯をかけても良いという位だけれども、その事が迂闊になさっておる。私はこの話を早川さんだけではない、研修を受けておるものだけではなくて、その後にあのう楢橋進さんの奥さんがお参りして見えました。
 代議士の。で今の話をさせて頂きましたんです。そしたら本当にいつもいつもケソケソして、お願いだけしてこう御理解が身に付かんという感じでしたけれども、昨日その事を心から頂いて帰られました。人間は言うなら欲に目がない。例えばもうだんだん地位が進むと、言うならばその大臣にでもなりたい。大臣になったら総理大臣にでもなりたい。それでありながらなれない。いやなれたからと言うてなら幸せであったか。
 言わばそれで良かったかと言う事になる時に、晩年になればなる程寂しくなるものがありはしないか。そこで私はね、結局大黒様の目が開くというか、肉眼をおいて心眼を開くと言われる、心の目を開かせて頂いての、欲得でなからなければならないということである。心の目を開かせて頂いての地位であり名誉であり、財産であると言う事ならばです、その地位名誉または財産が生き生きとしてくる。
 本当に人間の幸せの土台が出来ての財産であり、地位であり名誉であるならば、いよいよ輝かしい一生というのは、そういう人の事を言うのであろう。心の目を開かなければならない。欲には目がない。目がないなりになら一生欲をして行ったところで、それは結果においては寂しい、悲しい事にしかならない。先ずその大黒様の目を、言うなら心の目を開かなければならない。そして大黒様である。
 昨日文男先生が来ておりましたから、来ておる時に文男先生宛に電話が掛かって来た。ある知った方から今家庭がガタガタ揉めとる。それでどうぞお願いをしてくれと言う事であったらしい。直ぐ私にその事を申しました。大変御金儲けのまmぁ名人な方で、お金がどんどん儲かっておったけれども、この頃どうも赤字が続く不思議でたまらん。ところが何んとその大黒様をあそこは何十万かけて、こんな大きな大黒様を作ってあるです。
 そしてここへ持って来て、言うならば御心を入れてくれと言った様な事でしたけれども、大黒様と言うのは、ここで言うのは普通で言う大黒様。それは大黒様の心が入ったと言う様な事ではないんだ。結局和賀心を目当ての人達が、親先生の御取次ぎを頂くと言う様な気持ちで、大黒様を大事にするんだと言う様な意味の事もよく説明して、頂いて帰られたんですけれども、非常に繁盛しておりました。
 そして今度支店が出来たそうです。ところが最近になってから赤字が続く。おかしいおかしいと思いよったら、肝腎要の大黒様の袋に虫がついとった。袋のところが齧られとる虫に。それで文男さんに「私げん大黒様にゃ袋に虫がついとる」。「そりゃそうじゃろう。あなたの今の心掛けが間違うとる。今の様な事では、増々袋の穴が大きくなるだろうから」。したら「そうじゃろう。
 思い当たる事がある」と言うて、言われたというのですよ。言うならばあのうただ大黒様を拝みさえすれば、財のおかげを頂くと言う様なところから、本当言うたら大黒様の目が開いて、言うならば欲に目がないと言うがです、その目が開いて目が出来て、大黒様ということになる時に、今日私が皆さんに聞いてもらっておる、和賀心であり、同時に欲徳が身に着いて来るというのです。
 しかし私は合楽の大黒様はあらたかな事だと思いますよね。お宅辺のはどんな風虫は付きよらんでしょうか。その人はまぁ早う気が付いた訳ですから、結局和賀心です。わが心が散々破れとる。だから大黒様の持ってござる袋までが、ちゃんと虫が付くと言った様な結果。私はこれは偶然じゃないと思うです。確かにそうだと思う。合楽の大黒様はそのくらいなあらたかさを持ってござる神様だと私は思います。
 昨日日田の坂本さんが、毎日日参をされる。もう奥さんと一緒に参られん時は、又わざわざ自分一人で参って見えるです。大体この人は大体あんまり物は言おうごとない方ですけれども、この頃はそのものを言うのが楽しみのようですここで。お届けをされるのが。いわゆる信心の体験です。もうしかも生き生きとした熱情を持ってのお届けです。「昨日先生。親戚のものが参りまして、偶々信仰談になりました。それでお前が参りよる神様はだいたいどういう神様か。
 どういう神様か言う説明は出来んけれども、兎に角この神様は信じさえすれば、おかげを下さる神様だ」と。「どげな風に信じるか」。「例えばね」と言うて、先日あのう長崎県か、なんか佐世保の方へ、何か濡れてはならないものを積んでおい出られなきゃならない事があったんです。「そういう時に、例えばテントでも張って行く様な心では、絶対おかげにはならん」と言うたそうです。「それは神様を疑うとるから、テント張っていくとじゃろう。
 だから私は合楽の親先生にお願いして、お願いしとくと言わしゃったから、言わば普通で言うなら雨具の一ちょでも持って行かんならんところを、雨具も持たずにやらせて頂いたが、もうその荷物を下ろしてしもうてからどしゃぶりじゃった。もうそれはね実に素晴らしい事だよ」と言うて話した事でした。「ほう」と言うてから、親戚のものがたまがった。とこういうのです。
 だから信じると言うても、そのくらい徹底しとれば素晴らしいですね。濡れてはならないものを積んでおる。だから普通のもんなら、もう今にも降りそうな感じだからね、雨具の一つも持っていくのが普通だと。けどもそれをね雨具どん持っていく位な信じ方ではおかげにはならんと俺は思う。信心とは信じること。「それだけ信じるなら、やっぱおかげ頂くじゃろう」と言うて、まぁ親戚のものがたまがったというのです。
 なかなか普通の真似が出来ませんね。それはお取次ぎを頂いて、親先生がお願いをしとくといわしゃったから俺はそうしたと。それに私が最近思う事は、ここでお取次ぎをみんながしておるのを、後ろから聞いておると、みんな下駄履かせちからお取次ぎをしよるということが感じられると言われる。ははぁあの人は親先生をばさらか信じちゃござらんばいのという訳です。
 下駄履かせちからと言う事はいうなら、まぁ自分な五尺しかなかつにね、五尺五寸もあるごたる風に見せてから、お取次ぎを皆さんが頂きござる。で親先生が可笑しかろうとこういう訳です。しらごつまこつ言うてからお取次ぎしよるという場合がある訳です。それでも親先生がおかばいを下さって、おかげは下さるけれども、今日のわが心がそれなんです。実を言うたらおかげは和賀心である。自分を出来るだけよく見せといて、そんな風に聞いてもろうておいてお願いをする。
 自分の悪かとこはいっちょん言わんな、そしてそのうお取次ぎを頂きよる。そういう人を私は感ずると昨日言うんです。私はこんな事を言うのを聞いた事は初めてでした。言われてみると確かにそうですよ。だから私はここでお取り次ぎの先生に願うときにゃもう、赤裸々に自分の姿そのままの心でお取次ぎを頂くということが、神様を信じておるから、自分というものに下駄履かせんでもよいと思いますと言うけん、「坂本さんその通りばい」と言うて話した事でした。
 ですから今日のいわゆるわが心というのがです、いわゆる下駄履かせてお取次ぎ頂いてもおかげを頂く。信じてはいなくてもおかげは頂くというところにです、今日の金光教の信心のですね、まぁこれは普通のただ神仏を拝んでおかげを頂くという生き方だけなら、この御教えはぴったりですよ。けども金光様の御信心は、そういうこちらが間違うておっても、お取次ぎのおかばいによってです、おかげを受けるというのですから、わが心は言うならば嘘を言うておってもおかげを頂くというのです。
 金光教の信心は。自分の手元のところは赤裸々なお届けをせんで、少しでも良い様にみせて言いながら、どうぞ次のお取次ぎを願うというのは、これは本当はわが心、そういう心ではおかげは頂かんぞうと言われたら、もうお仕舞いである。それでもお取次ぎの働きというのは、あぁ言うて嘘をいよりますけども、おかげを頂かなければならない事だけは事実なのですから、どうぞおかげを頂かせて下さいと言う。
 してみるとおかげは、わが心ではない事になる。けれども本当に欲徳を身に付けたいならばです、今日皆さんに、大黒様の目を欲に目がないと言うが、その目を頂いて、欲徳が身についてくる。そこで私は坂本さんに、その坂本さんの次の話を聞いて、次の信心の手掛かりを、まぁ暗示させて貰った。今あんたがそう言う様にです、親先生がお取次ぎを頂いていったから、濡れてはならないものを、車に積んでおるけれども、雨具一つ持って行かじゃった。
 おかげを頂いて長崎か佐世保まで行く間、おかげで濡れもせじゃったが、その品物を下ろしてしもうた途端にどしゃぶりじゃったという事実をです、その自分の親戚の人に話して、「ははぁ信ずるということはそげなつばいね」と、金光様の信心ちゃそうかと言うて、まぁ感心したとこういうのである。そこでんならその信ずる力だけが強うなっただけでは、言わば欲徳が身につくと言う事にはならない。欲徳が身につくということは、やはり神様から、今度は信じられるということにならなければいけない。
 神様は絶対信じとるばってん、神様が信じて下さらなかったら欲徳にはならん。「大黒様の目が開くというおかげを頂くためにはです、信心から真心(しんじん)にならにゃいかんばい。」と言うて話した事でした。信心から真心と言うのは、言うなら真心にならなければならないぞというのである。真心にならなければならんということは、教えを身につけていかなければいけないよと言う事である。ただ信ずる力だけが、言わば我武者羅に強くなっていくというだけでは欲徳は身につかん。
 欲徳と言うのは神様の言うならば神様の御信用。だから神様から信用される事のためにです、信心から真心にならにゃいけない。「はぁそうですか」という訳なんです。これから坂本さん。その真心。真心と言う何事にも真心になれよという、真心になっていかないけん。そこに実意丁寧が求められる。そこに真、真心が求められる事になってくる。言うならばそこに寛大の寛の字が身についてくる。一切の働きを神の働きと見るという見方のところから、全ての事に合掌出来れる心の状態が開けてくる。
 そこからね次に神心(しんじん)が生まれるんだよと。次の神心は神心と書く。そこに合楽の世界があるだ。神心。神様の心と私共の心が一つになる。いわゆる合楽の世界。欲徳が身につくだけではない、その向こうに合楽の世界。神様と喜び合える世界。神様が一礼申すと言われるほどしの世界。だからまぁだまぁだ神様を信じた親先生を信じただけじゃいかんたいねと言う訳であります。
 今日はおかげのあるもなきもわが心。これは普通一般のただ拝み信心的な事でならです、成程おかげのあるもなきもわが心。こういう心ではおかげ頂かん筈というな事を悟らして貰うんだけれども、金光様の御信心は私が今言う様に、坂本さん言われるのに「私が後ろからじっと見よるとに、皆さんがお届けしよんなはると、自分なもう立派にでけとるもんのごたる顔してお届けしよんなはる。親先生が聞きなはったら可笑しかろう。
 言うならば下駄履かせちから、お届けをしよんなはるけども、神様を親先生を信ずるということは、下駄を履かんでもよかでしょうもん。そのまま本当に赤裸々にお取次ぎを頂いてこそ、初めてお取次ぎを信じておる、親先生を信じておると言う事になるとでしょうもん」と言うて、昨日坂本さんは言われます。そうばい本当に信じれたら、あんたが言う通りなんだ。それでもですなら親先生は嘘言よるとでも、嘘ではないようにおかばい下さっておかげだけは下さる。
 してみるとおかげはわが心ということではない事になる。だからここのわが心というのは、普通一般で言うわが心ではなくて、霊験というのを欲徳のと頂いて、わが心をなら天地書附にある和賀心を基軸にして、それに向かって進んでいくということの、わが心と頂かなければ、金光教的御教え、教祖の御教えから外れる事になる。そこでなら私が昨日早川さんに申しましたように、「もうあんた四十何日間も合楽で修行したんだから、少しは言うならば、薄らぱっとぐらい目が見えるようになっただろう。
 本当の事が見える様になっただろう。今迄の生き方は間違うとった。こういう生き方が本当である事が薄らぱぁっとは分かってきたから、さぁ明日からやらせて頂いて、家で親戚会議なら親戚会議があるに望んで、今迄のあなたとは違う訳だね」と言う事であります。だからどうでも一つ言わば欲には目がない。その大黒様に目がない。まず目を開いてから、そこに限り無い欲徳の世界。言うならば願わず頼まんでも、おかげを頂けれる世界が開けてくるおかげを頂く事が、先決だということになります。
 坂本さんに申しましたように信ずる心、それから真心それから神心。それをいよいよ頂いて行く一つの手立てとして、いわゆる寛の字で行こうというのである。ウ冠に、草冠、そして見るという字。神様のそれをすべてを働きと見るという生き方。どういうことがあっても、神の働きと見る。そこに神の働きと見るということを神の働きと信じれるところに、それを受けていく。その受けていくうちに寛の字になっていく。
 心が広くなってくる。寛大になってくる。豊かになってくる。そういう心に神様が信じて下さる。神様を信ずるだけではなくて、神様から信じられる世界が開けてくる。そこにつくのが欲徳だ。今日はね、霊験のあるもなきもわが心というのを、言うならば本当に金光教的に頂いたら、今日皆さんに聞いて頂いた様な事に、なると言う事を聞いて頂いた訳ですね。
   どうぞ。